“东西”はなぜ「物」の意味でしょうか?

大家好~!アーキ・ヴォイス スタッフです^^

さっそくですが、、、

“东西”の意味をご存知でしょうか??

本来、东(東)西南北”は方向を示す言葉ですよね。
ですが実は、“东西”は「物」を意味します。

このブログでは、なぜ“东西”は「物」と解釈されるようになったのか、解説します!

 

(一)“东西”連用すると、最初は不安定のところへあちこち漂うことを指します。
例:杜甫《无家别》诗:“我里百余家,世乱各东西。”
(杜甫の「無家別」という詞:「我が村に百ぐらいの家は戦乱の世にはあちこちへ逃げた。」)

(二)東は主人、西はお客さんを指すことによって、宴席時のお酒を入れるコップを指します。
例:胡朴安《俗语典》东西条:“古有‘玉东西’,乃酒器名。……已谓物曰东西。”
(胡朴安の「俗語典」の東西の解釈:「古代は玉東西があった、
それは酒器の名前だ。既に物を東西で言うようになった。」)

(三)物を指す。
例:《翻译老乞大上》:“主人家的东西,休错拿了去。”
(「翻訳老乞大上」:主人様のお宅の物を誤って取ってはいけません!)

“东西”は、一見、漢字のイメージのまま「東西南北」の方向を
意味する単語だと感じてしまいますが、実際は「物」という意味をもちます。
“东西”を物と変換するには、少し時間がかかりますね。

多くの学者が解釈し、一つの説が出来ました。
下記の説です(これは納得ですね!)

“东西”は唐の時代都長安の「東市と西市」から転じた説です。
昔の長安の「東市と西市」(二つの市場)は商売が栄えている場所でした。
全国或はシルクロードからの商人達が集まった場所です。
「東市と西市へ物を買いに行こう」からだんだん「東西を買う」に転じたようです。

今は“东西”は主に物と者を意味します。
“东西”(意味:物)を使う範囲は非常に広いです。
例えば:
1.这个东西是我的。(これは私のものです。)
2.你用的那个是什么东西?(使っているのは何のものですか?)
3.今天老师讲的东西你都记住了吗?(今日先生が教えた内容を全部覚えましたか?)

人を指すと面白いですね!
可愛い子供(動物)、悪戯する子供、可哀想な人(動物)、悪い人など意味を表します。
例えば:
1.这个小东西太可爱了!    (この子は本当に可愛いですね!)
2.你这个坏东西,总是这么调皮!(悪い子よ、いつも悪戯したんだ!)
3.这个可怜的小东西被主人扔了。(この可哀想な子は飼い主に捨てられた。)
4.他是个坏东西,你别靠近他。 (彼は悪い人だから、近づかないでね!)

しかし、人に対して、「你不是个东西。」のような言葉を言わないでください。
なぜなら、是は口喧嘩の時、相手をののしる時に使う汚い言葉です。
もちろん「你是个好东西」も言いません。大人に対しては、“东西”は悪い意味でしか使いません。

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“达人”是什么意思?

大家好,我是大阪校的安安。

这两天樱花已经全开了。真漂亮!(この二三日、桜は満開になりました。綺麗ですね!)

学生用汉语说:“樱花满开了!”(生徒さんは中国語で「桜は満開になりました!」と言いました。)

我说:“不是  满开  全开了。”(私は「満開ではなくて、“全开了”です」って言いました。)

说到这里,我想起了前几天看中文电视的时候,(ここで、私は前日中国語のテレビを見た時のことを思い出した。)

听到中国的主持人用汉语说:“她是做蛋糕的达人。”(中国人の司会者は中国語で「彼女はケーキ作りの達人です。」と聞きました。)

我妈妈问我:“达人是什么意思?”(母親は聞いた:「达人は何の意味?」)

我说:“可能是日语的達人(たつじん)。技术高手的意思。”(「日本語の達人かもしれない。腕前が凄い人の意味だ。」って答えました。)

看来达人这个日语词汇开始慢慢在中国流行起来了。(達人という日本語は中国で流行り始めているらしいですね!)

除此以外这几年在中国流行的日语词汇还有:人气、艺能界、女优、玄关等等。(それ以外、最近中国で流行してる日本の語彙はまたあります。例えば:人気、芸能界、女優、玄関等など。)

对应的日语分别是:人気(にんき)、芸能界(げいのうかい)、女優(じょゆう)、玄関(げんかん)等など。

中国に来る留学生、トップ3は韓国、米国、日本

 こんにちは、大阪校の安安です。最近「中国に来る留学生、20万人を初突破!」というニュースが中国のテレビでよく放送されました。皆さんに紹介します。

      中国教育部3月25号召开的记者招待会上表明:2008年来中国的留学生首次突破20万人。韩国、美国、日本位居前三名。 (中国の教育部は25日に開催した記者会見で、2008年に中国にやって来た留学生が初めて20万人を突破したことを明らかにした。出身国トップ3は順次、韓国、米国、日本だった。)
 

         2008年来中国的留学生当中,学历留学生人数比去年增长29%,为八万五千人。占全部来华留学生的35.8%。这个增长速度高于来华中国留学生总数的增长速度。   (  2008年に中国に来た留学生のうち、学歴取得コースに入った学生の数は、前年比29%増の8万5人と、全体の35.8%を占めた。この増加スピードは、中国に来る留学生総数の増加スピードを上回っている。)

        中央财政2008年给予来华留学生的投入额上升为5亿元人民币。从中国政府获得奖学金的留学生总数比去年增长33.15%,达到1万3516人。奖学金的发放额和发放对象都有了大幅提高。接受中国政府奖学金的留学生,不但免除了入学金、学费、试验费、实习费等,学校还免除住宿费,另外还提供综合医疗保险服务。此外,每个月定额支付生活费,标准如下:本科学生1400元,研究生1700元,博士生2000元。 ( 中国留学関連事業への中央財政による2008年投入額は5億元にのぼった。また、中国政府から奨学金を受けた留学生の総数は、前年比33.15%増の1万3516名に達し、奨学金の発給額と発給対象範囲は飛躍的に拡大した。中国政府から全額奨学金を受ける外国人留学生は、入学登録料、授業料、実験費、実習費などが免除され、学校は宿泊費を免除、外来診察医療サービスや中国政府奨学金留学生対象総合医療保険サービスが提供される。また、毎月定額の生活費が支給され、その標準額は、学部生1400元、大学院修士課程生1700元、大学院博士課程生2000元。)

         另一方面,2008年去海外留学的中国留学生也达到历史最高,为17万9800人。  形成了以国家公费留学生为主,自费留学生激增的新局面。中国留学生在各国留学生中所占比例相当高。   ( その一方2008年に海外に留学した中国人留学生は、過去最高の17万9800人。国家公費留学生を主流に、自費留学生も急増しているという新局面が形成され、各国留学生に占める中国人留学生の割合はかなり上位にある。)

       中国語を勉強されてる日本の方々にとって、これはうれしいニュースかも知れませんね。中国と世界の交流を深めるために、留学生はブリッジのような役割を働いていると思います。

中国茶的历史(中国茶の歴史)

中国茶的历史

中国茶是生长在中国云南省,四川省,贵州省周边的植物。茶的历史是从公元前2700年左右的传说开始的。茶最初是作为药来服用的,后来作为饮料开始饮用,到唐代时候,在全国范围内普及开来。

中国茶の歴史

中国茶は中国の雲南省・四川省・貴州省周辺に生えていた植物。お茶の歴史は紀元前2700年頃の伝説から始まる。茶は最初は薬として飲まれていたが、その後は飲み物として広がり始め、唐代には全国規模に広がった。

那个时候被放在茶臼里碾碎成粉末状的“粉末茶”是主要的饮用方式。在唐代,由于出现了陆羽(被称为“茶仙”),所以茶不单纯是饮料,而且对学艺术等方面都产生了巨大的影响。

この頃のお茶は臼などで挽いた粉状「末茶」のお茶が主流。また唐代に陸羽(「お茶の仙人」と呼ばれる)が誕生したことで、お茶が単なる日常的な飲み物としてではなく文学や芸術の側面でも大きく発展していくこととなった。

宋代制茶技术没有什么很大的进步,但在艺术方面,书画、诗集、茶具等却流传后世。到了明代,进贡给太宗皇帝的茶叶代替了以前的粉末茶,茶叶很快成了饮茶的主流。随着这种变化,泡茶的方法呀茶具的形状用途等都发生了很大的变化。

宋代には製茶技術が急激な進歩をなし、芸術面でも書画詩、茶器等が後世に残された。明代に入ると太宗が献上させるお茶をこれまでの末茶から散茶(芽茶)に替えさせたことで茶葉の主流が急転換した。この変化に伴いお茶の淹れ方や茶器の形状、用途も大きく変化。

到了清代,茶叶出口达到了高峰,这是中国茶的发展史上的全盛时期。但是,这也成为了导致鸦片战争发生的主要原因。随后茶园、生产基地等都受到了极大的打击直至荒废。中华人民共和国建国以后,政府鼓励重新栽培茶叶,各地出产了各种各样的名茶。

更に清代に入ると茶葉の輸出もピークとなり、中国茶の発展史上最全盛期となった。しかしそれが結果的にアヘン戦争を生む要因となり、茶園や生産基点に大きな打撃を与え荒廃させてしまう。中華人民共和国建国以後は再び政府によってお茶の栽培が奨励され、各地で様々な銘茶が生まれている。

中国历史上,茶最早出现在古代传说中的炎帝神农氏。从这个传说可以看到,在中国发现茶是在公元前2700年左右的神农时代。

中国の歴史の中でお茶が最初に出てくるのは古代伝説の中に出てくる炎帝神農氏。この伝説から中国ではお茶の発見は紀元前2700年頃の神農時代だと見られてる。

神农氏是传说中的三皇(伏羲氏,神农氏,黄帝)之一,由于神农氏发明了用火烧制食物的方法,所以他又被称为“炎帝”。《神农本草经》中记载:“神农尝百草,日遇七十二毒,得荼而解之。”这个就是神农首先发现茶(荼=茶)的根据。

神農氏はこの伝説の中に出てくる三皇(伏羲氏、神農氏、黄帝)の一人で、神農氏は火を用いて食物を取ることを発明したために「炎帝」と呼ばれた。「神農本草経」には「神農氏は百草を味わって、一日七十二種類の毒に遭遇したけれど、荼を得て、毒を消した。」と記載されており、これは神農が初めに荼(=茶)を発見したと言われる根拠になっている。

有关饮茶的方法,最早的文字记载是在《广雅》中。到了汉代,四川的王褒写的《僮约》中,有“烹荼尽具”“武当买荼”的记载,说明了当时已经有饮茶的习惯和买卖茶的活动了。这部《僮约》也是现阶段有关茶具记载的最早文献。

お茶の飲み方を文字に記したのは現在「広雅」が最も古い文献とされていて、漢代になると四川の王褒が記した「僮約」の中に「烹荼盡具」、「武當買荼」という記載があり、ここから当時既にお茶が飲まれていてその売買があったことがわかる。またこの「僮約」が現段階では茶具に関する最初の文献だと言われている。

从三国时期,张揖的《广雅》记载中,我们可以知道,茶首先要碾,然后煮,再放入葱、生姜、蜜橘的皮,最后饮用。从东晋时期的传说故事中我们可以看出,茶已经在社会、文化方面发挥了各种各样的作用。以后,茶伴随着历史的发展,不仅仅是解渴的饮料,还成为了人们生活、习惯、文化、精神、艺术等方面不可缺少的一部分。

三国時代になると張揖の「広雅」からお茶はまず挽いて、煮出し、葱や生姜、蜜柑の皮などを入れたということがわかり、東晋代に入ると当時の物語から、お茶が既に社会的、文化的に様々な役割を果たしていること。以後お茶の存在は歴史と共に単に渇きを癒すだけのものではなく人々の生活習慣、文化、精神、芸術面に欠かせないものへと発展していった。